生きることの表現として不可欠なアート

加藤里子さん(茨城県/「色彩学校」認定色彩心理講師/色彩心理士/株式会社 ひとは 代表取締役

加藤里子さんが運営する「自由空間 あとりえ“ず~む”」は、JR常磐線・水戸駅(茨城県)から車で5分程の住宅地の中にある一軒家のアトリエです。
末永メソッドをベースにしたアトリエをはじめて20年、一昨年には「株式会社ひとは」を設立し、障がいのある方たちに自己表現としての手仕事を提供する福祉サービス事業所「手仕事工房 のっぱらの扉」を立ち上げました。今年4月には新たに工房&カフェの建物もオープン。
これをきっかけに、「色彩学校」とのおつきあいも20年になる加藤さんに、アトリエを中心にした活動の流れとその間の個人的な心の変化についてお話を伺いました。

▲新しく建設した工房&カフェ。訪問した3月はまだ建設中でした。

▲「のっぱらかふぇ」の入り口。様々なイベントも企画されています。

一人の少年が教えてくれた「子どもの絵は心そのもの」ということ…

加藤さんは「色彩学校」に通う以前から自宅で絵画教室をされていたと伺いましたが、そうしたアート活動を始めたきっかけを教えてください。

加藤 28年前に始めたときは、課題に取り組んでもらういわゆる絵画教室だったんです。それも、近所の人に夏休みの絵の宿題を見てほしいとお願いされたのがきっかけでした。
それが3人来た内の2人が賞を取りまして、あそこに行くと絵が上手になるという噂が立ち、毎回お菓子のお礼もなんだから月謝を取ってほしいと言われて、リビングで週一回の絵画教室が始まりました。
そして近所の子が友達を誘い、みるみるうちに10人、20人と増えて週2回になり、あっという間に40人になりました。

では、いわゆる絵画教室から、末永メソッドを取り入れた “心を表現するアトリエ” に転換したのにはどのような理由があったのですか?

加藤 絵画教室になって2~3年経った頃でしょうか、アトリエに来ていた子どものおじいさんが鉄板の下敷きになって亡くなるという悲しい事故がありました。お葬式の次の日、「どうしても行きたい」って言うからと、喪服を着たお母さんに連れられて、その子がアトリエにやってきました。

当時はその日の課題があったわけですが、そんな気分でもないだろうからと「好きなように描いていいよ」と伝えました。するとその子は、チューブから絵の具を出してハンドペイントを始めたのです。
その姿を見たときに、おじいさんを亡くした思いを色で表現したいんだろうということを感じ、子どもの絵って心そのものなのかな……と思いました。

そこから、子どもの心と絵画ということが気になりだし、このまま課題のある絵画教室をやっていていいんだろうかという疑問を抱くようになりました。
そんなある時、新聞で近くの街で子どもの心を表現する教室をやっているという人の記事を見つけ、その人に連絡したところ「色彩学校」を紹介してもらったのです。そして、早速「色彩学校」へ連絡し、すぐに学び始めました。

話は先ほどの子どものことに戻りますが、おじいさんの死から1年後、2階建てのお家の窓から笑顔いっぱいの自分が星を見ている、という絵を描きました。
「星を見ているの?」と聞いてみると「そうだよ、だっておじいちゃんはお星さまになったから。僕を見守ってくれているんだ」と笑顔で答えてくれたのです。それまではぐちゃぐちゃの絵を描いたりもしていましたが、星の絵を描いた後から、その子の心がどんどん回復していくのがわかりました。

そのプロセスを見ていたので、「色彩学校」で学んだことは納得でしかありませんでした。
学びながら教室で描かれる子どもの絵を見て、本当にそうだと実感として落とし込みができたのです。
あの子と出会わなかったら、今の自分はいないと今でも感謝しています。

▲「自由空間あとりえ“ず~む”」では、それぞれが思い思いにこだわりの作品を創作しています。

▲粘土で作ったディズニーランドのアトラクション。壁の飾り1つ1つまで正確に再現しています。

自分自身の心の蓋を開けてくれたアトリエ活動

「心を表現するアトリエ」活動というのは、子どもたちの様々な感情と向き合う場だと思いますが、加藤さんの心にはどんな影響を与えたのでしょうか?

加藤 それまでの私は、心に蓋をして幸せそうに生きるということを選んで生きていました。そしてそのことに不満もないと思っていました。

なぜそうなったかと思い返してみると……、
私の父は体が弱かったので、母が昼も夜もなく働き一家を食べさせていました。そのため、私は小3くらいの時には家事一切を担っていましたし、冷静で大人びた子どもでした。運動会のお弁当はいつも自分で作っていたのですが、「里子ちゃんのお母さんは料理が上手ね」と褒められても「ほんとは私が作ってるんだけどね」と心の中で思っているような子どもでした。いつの間にかつねに冷静に人を評価し、目の前にいる人が求めている自分でいるようになっていたのだと思います。

結婚についても、母を反面教師として、子どもに寂しい思いはさせない、専業主婦としてお母さんとして生きていくことを決めていました。条件の合う相手を選び、実際によい嫁、よい主婦という仕事を完璧にこなしていました。

ここまでお話しを伺っていると、現在の加藤さんの印象とはまるで別人のようにも感じますが、そこからどのように変わっていったのですか?

加藤 転機は中学生の長女がいじめがきっかけで不登校になったことでした。不登校の親の会を作り、署名を集めて、高校の入学時に親が不登校の理由などの申立書を出せる仕組みを作ったりしました。親の会の活動は10年くらい続けたでしょうか。そのうちに児童館など様々なところから色彩心理についての講演を頼まれるようになり、活動は近所というレベルから地域に広がっていきました。

アトリエを始めたのは近所から頼まれて、そして不登校の親の会の活動は自分の子どもの生き辛さの解消のために始めたことだったけれど、思えば自分の生き辛さを解消したかったのかもしれません。

やることが増えると充実感を味わえます。また、活動を通していろんな人と出会い、思想的な話しをするようになって、家庭にいることがつまらなくなっていきましたし、実はこの頃、恋人もいました。
その後、夫とは別居、離婚するのですが、精神的に不安定だった長女が父親を嫌っているからということが表向きの理由でした。でも、本当は自分自身の気持ちが大きかった。
社会的に認められる大きな理由があるし、2つの家を行き来し、夫や舅のためにご飯も作っていたので、自分が非難されることはありませんでしたが、外に出てホッとしている自分に罪の意識もありました。
その罪の意識があったからこそ、帳尻を合わせるかのように、誰かのために活動をするということに、より一生懸命になった部分もあったかもしれません。
こうして徐々に自分自身の心の蓋を開けてきたのだと思います。

自分のスペースを持つことで心身が健康に

そんな加藤さんはやがて、本格的にアトリエをやりたいと、2010年に一軒家を建て、「自由空間 あとりえ“ず~む”」を創られましたね。そこに至るまでどんないきさつがあったのでしょうか?

加藤 別居してからは賃貸アパートの2階の部屋を借りてアトリエをやっていたのですが、そこに車いすの女の子が通ってきていました。毎回、お母さんがおんぶして2階まで上がってくれていたのですが、ある日、アパートの下に停めていたワゴン車が邪魔だと近所の人が怒鳴りこんできました。
私もお母さんと一緒に土下座して謝りましたが許してもらえず、そのお母さんは私に申し訳ないと泣いて謝ってきました。

そんな社会は許せない! と思いました。
それをきっかけに、私は「バリアフリーの教室を作る」と宣言し、次の日から土地を探し、兄の助けもあり銀行に4千万の借金をして、1年後にはバリアフリーのアトリエを建てたのです。
市を跨いでの移転でしたが、100名近くいた会員さんのほとんどが辞めずに移転先に通ってきてくれました。

▲住宅地とは思えない林の中に建つ「自由空間 あとりえ“ず~む”」外で大きな布に表現したり、焚火をするなど、ダイナミックにアートを体験できる空間です。

借金はできたけど、自分が一家の主となり、娘2人と誰にも気を使わない気楽な人間関係の中、好きな仕事をする充実した毎日です。
不思議なことに、治療したわけでもないのに、あったはずの大きな嚢腫が消え、体調もめきめきと良くなりました。
人の気持ちってすごいですね。自分に嘘をつかず、素直に心を揺らすということが、どれだけ心と体に大事なことだったんだろうと思います。

考えてみると、それまでの私には自分の居場所がありませんでした。
いつもその場所で一番よく思われる生き方をし、家が変わるたびに自分を変えていました。自分のためでなく、その場所で隣にいる人のために生きるということに頑張っていたんだと思います。
自分のスペースを持つって大事なことですね。家を建てるのも自分の表現。大きな創造物、自分の心を表現することは心の安定につながりました。

「末永メソッド」は、私の心の育ての親だと思ってます(笑)

活動を始めて26年目に「株式会社ひとは」の設立。より社会性のあるものに変化したように思いますが、ここまで、話しを伺っていると、絵画教室から始まって、「自由空間 あとりえ“ず~む”」、そして「株式会社ひとは」へと変容していくプロセスは、加藤さん自身が心を解放し、生き直してきたプロセスのように感じられます。

加藤 幼少の時に得られなかった安心・安定を、大人になって自分なりに獲得してきたように思います。
誰かに与えられるのを待つんじゃなく、自分で足りないものを満たしてきた。
でも、大人になってからやるのは大変でしたね。(笑)

12年前に一軒家のアトリエを建てたときは、すべて自分好みで作ったけど、今回の建物は私のものでないという意識が強いんです。社会性というより、未来へ向けての遺産のようなそんな感覚。
まだまだ若いとは言われるけど、終活のはじめの一歩という感じで、自分との間に距離がある感じです。

実は、12年前に一軒家のアトリエを建てた後、自分らしく生きるということについてはやりつくしたので、あとは静かに生きたいと思っていたんです。
でも、長年通ってくれている子どもたちのお母さん方から、障がいのある子どもたちが高校を卒業したら居場所がないという話しが聞こえてきて、それは大変なことだからもっと知ってもらわなければ、と2017年には「色彩学校」の修了生の仲間たちと千代田区のアーツ千代田で「ハートアート展」を企画開催。
その活動が現在の「株式会社ひとは」と福祉サービス事業所「手仕事工房 のっぱらの扉」につながりました。

▲2017年の色彩フォーラム(協会主催)は「ハートアート展」の展示会場で行われました。

▲工房の外壁、左上のタイルは加藤さんの手書き!

▲カフェの天井に飾られた絵は、加藤さん作。

こうした活動の原動力となったのは私の中の正義感ですが、これは父親から受け継いだものなのかもしれないと思っています。
父親は国鉄の労働組合の委員長でした。後から聞いた話しですが、父はいつも赤いハチマキをして会社側と交渉し、皆のために様々な問題を解決していたようなんです。
困っている人がいると、給料を全部あげてしまうような人で、父にとってはそれが生きがいだったんじゃないかと思うけど、外面がいいそんな父が私は大嫌いでした。
でも、振り返ってみると、理不尽なことがあると腹が立ち、一緒に何とかしようとする性質は父譲りなのだと思います。

色々な巡りあわせで「色彩学校」に入ったけど、入らなかったら離婚もしなかっただろうし、こんな人生は歩んでいなかったと思います。
だから、末永メソッドが私の心の育ての親だと思っている。
幼少期は、心があって苦しむならないほうがましという感じで生きていた。
でも、心を取り戻し、自分を育てることで、人生が楽になりました。

インタビュー:馬目佳世子
写真:牧村幸恵・馬目佳世子
協力:株式会社ひとはの利用者とスタッフの皆さん

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