「ライフサイクルアートセラピーコース」
総集編
これまでの取り組みと
最終回のテーマについて語り合う
現場でのステップアップに役立てることを目的に「色彩学校」のコースの一環として10年ほど継続してきた「ライフサイクルアートセラピー」シリーズの最終回が、2025年2月からスタートします。
今期のテーマは「心が響き合う言葉を発見する 〜アートセラピーの場の対話力をステップアップ〜」。
私たちはアートセラピーや「子どものアトリエ」の場で、参加者に対してどのように言葉を発し、また耳を傾けたらいいのでしょうか。実践の場や講座で学んでいる中で出てくる疑問や迷いは、絵を介してセッションしながら感じたことを言葉で伝える難しさですね。
最終回の内容を、受講生の皆さんとどのように分かち合う場にしたいか、ここでは、末永蒼生が、担当講師ファシリテーターでもある佐久本恵さん(講師・アトリエCocorone主宰)と、現場でどのような言葉、どのように響き合う対話が生まれてくるのか、個人的な体験を踏まえて語り合ってみました。今回の最終回は総集編ともいえる内容でもあり、この数年の「ライフサイクルアートセラピー」シリーズがどんな内容を深めてきたかも振り返りつつ、今回のテーマに至った流れも話されています。
アートセラピーの場で、なぜ「言葉」の表現についての再発見が必要なのだろう?
佐久本 ライフサイクルシリーズはスタート以来、毎回新しいテーマでやってきましたね。例えばこの100年間の心理療法の変遷やそれがアートセラピーとどう関わっているのかなど。
末永 そうですね。精神分析からその後に発展したユング心理学、マスロー心理学、カウンセリングに新たな道を開いたカール・ロジャーズのクライエント中心療法など、いわゆる人間性心理学。さらに『死の瞬間』の著書で知られるキューブラー・ロスの病床でのカウンセリング、また僕が直接関わった色彩心理学の研究などがどのようにアートセラピーの広がりに影響したかなど参加者と共に体験しながら辿ってきました。この数年は佐久本さんのファシリテートで続けてきましたが、振り返ってどうですか?
佐久本 アートを通してのオープンダイアローグという感じで心の深層を旅するような流れになってきました。そんな中、私も実践する一人として、また個人としても心動く自分を感じてきました。今回はシリーズ最終回、なぜ末永さんが「“心が響き合う言葉” を発見する」というテーマに取り組もうとしたのか聞かせてください。
末永 今回はこれまでの総集編とも言えるテーマかもしれません。講座で受講生の皆さんと話していると、クライエントに対してどう言葉を投げかけたらいいかという悩みを耳にする機会が多くあります。でも、もしかしたらその前に言葉にするべき自分の気持ちや考え、心そのものが機能不全に陥っている場合もあるのではないかと感じます。というのも、誰しもそれまでの人生で言葉によって自分を否定されたり傷つけあったりした体験があったりする。言葉は固定した意味を担っているだけにインパクトが強いよね。時には鋭利な諸刃の剣のような強さがある。それが重なると、「もう2度と自分の心のうちは明かさない」という感じでドアをバタンと閉めてしまいがちになる。自然な反応だよね。結果、心も固まってしまう。
佐久本 本来、カウンセリングは心を開くためのものだから、私もそこが最もデリケートな言葉の交換だと感じ、いつも心してますね。
言葉の持つ制限から抜け出し、“心を自由にする新しい言葉”へ
末永 思うに、コミュニケーションの場では説明が目的である場合とカウンセリングのように心を無条件に受けとめることが目的の場合と、二つの次元での言葉の使い方があると思う。
人間は言葉を抜きに感じたり考えたりできないわけだけど、僕がセラピーとアートを融合した方法を実践してきたのは、子ども時代から美術の環境に浸かってきてアートの世界が心に与える圧倒的な力を体験してきたからかな。その体験は人生で行き詰まった時に新しい扉を開ける力を与えてくれたんです。そんな中で色の世界を言葉に翻訳するメソッドとして、色と言葉の関係を分かりやすく示した「カラーチャート」の開発もしたりしてきた。
佐久本 そこから言葉の問題も浮上してきたんでしょうか?
末永 そうですね。私たちは捉えどころのない無意識の世界を言葉にしようとして苦労するけれど、実は、そもそも混沌とした無意識を生み出したきっかけは言葉だったんじゃないかと。変化し続ける生命現象全体を捉えるには言語は不自由な道具だからこそ、その限界を超えようとして心の深層に無意識的な領域が生まれてきてしまったのではないか。無意識を発見したフロイト先生が生きていたら訊いてみたいな(笑)
▲保育現場に立つ覚悟やその揺れと向き合っていた2022年受講生Kさんの表現。
「今、すでに自分らしく生きていると感じた。自分の思う道を突き進んで行けば、必ず未来は開け、満たされる。立ち止まってもまた進み、転んでも立ち上がる、それが人生。その中で、心は強くなりやさしくなる。それが私の思う“自分らしい自我の創造と生き方”です」
佐久本 人はどうやって無意識と言葉が分離し始めると思いますか?
末永 人間の場合、一つは幼児が言葉を覚え始める時期から無意識の世界と言葉の世界が分離してしまうと思います。いわゆる幼児の指差し行動ですね。「あれは何?これは何?」と指差しながら言葉を憶え、全てに名前があることを知る。でもそうやって言葉による意味の網の目の中で生きていると、今度は本能的な自由が制限され息苦しくなる。それで時々意識をオフにできるよう無意識世界を必要としたのかな。例えば、寝ている時に夢を見たりアルコールで理性を麻痺させたり、アートや音楽を楽しみ我を忘れたいというのもそれかもしれない。そんな欲求と芸術や文化、宗教の誕生は関係あるかもしれない。
末永 人間は言葉を始めいろんな道具を作り出すことで自然の猛威から身を守れるようになった。でも気がついたら、言葉という道具に使われるようにもなった。その結果、直観や感性を不自由にしているかもしれない。便利な道具が進化するほど人間は退化する。例えばスマホを使うようになって漢字を思い出せないし記憶力が低下する。わざわざ脳トレが必要になってしまうというおかしな事になってる(笑)。そこから抜け出す第一歩は言葉の限界を見つめることだと思う。うまくいけば心を自由に解放する新しい言葉の表現を発見できるかもしれない。そんなことを考えながら「心が響き合う言葉」という今回のテーマが出てきたんです。
現場で感じる「見えるもの」と「見えないもの」との境界線
佐久本 私の場合、振り返ってみるとアートセラピーの現場に立つようになって、【見えるもの】と【見えないもの】の境界線を繋ぐことを心がけているように思います。
見えるものというのは、表情、しぐさ、話し声など五感でキャッチできることを作品に含めてみるということ。見えないものとは、その見えるものに含まれるその人の無意識の声と言ったらいいか。それに耳を傾けるということ。そうやって、無意識と意識を統合しながら最適な言葉は何だろうという模索をしつづけてる気がします。
例えば日常生活で『元気です』と話された時。「笑顔ではつらつとしている、確かに元気そう」とか、「浮かない表情で顔色も悪いみたい、本当は不調を抱えているんじゃない?」と思い、そこから会話をしてみたりします。でもこれがメールのやり取りだと、言葉以外の情報が見えないものになってしまうので、文章の前後に流れる行間を読むことをする……。こういうこと、皆さんも人とコミュニケーションしてらっしゃるのではないでしょうか。
末永 現場で子どもの絵を読み解く場面ではどうですか?
佐久本 例えばアトリエで『赤色』で表現が生まれた。その時、色だけでなく形/構図/タッチも含めてみていく。太陽が描かれれば「エネルギッシュな赤色」と感じ、筆を殴りつけながらぬたくり表現された赤ならば「怒りの発散の赤色」と受け取る。このように、表現を色だけの情報で見るのではなく、その周辺にある関係性も含めて丁寧に表現を受け取る姿勢を言葉のやり取りの中にも応用している感覚があります。そしてそのように感じる自分の感覚に偽りはないので、自然に言葉として相手に伝える言葉となるのでは……。
▲子どものアトリエで思いっきり赤で表現している女の子。
末永 その場合、その実感が主観的な範囲ということありませんか?
佐久本 そう、確かに自分も含め人間というのは相手の絵や言葉に対して最初は主観だけで対してしまう。それはなかなか避けられないですよね。その上で私の見えていることはほんの一握りのことと謙虚さを持ちながら、私の見えていないその人ならではの世界に出会いたいとセッションの場に居ます。私の心はこんな色や形になっているの、あなたの心はどんな心模様なのかしら? と、自分の想いや考えも相手の想いや考えもフラットに存在しているようなセッションを心がけています。意識と無意識、見えるものと見えないものの境界線を繋いでいくのには、セラピストとクライアントの役割の境界線を越えて、人と人というフラットな関係性になれることで創出されると思っているんです。これは体感で得てきた私の感覚で、私が望んでいる人と心の中の大事なところを語り合う時の大切な条件です。
意識と無意識を含めた全体性を掬い取るセンサー
末永 大切なことだから、もう少し詳しく聞いていいですか?
どうやったら無意識の声に耳を傾けられるようになってきたと思いますか?
佐久本 20代後半かな、アートセラピーを学び始めた頃の私はまだ親から精神的自立が出来ていなくて、特に母親に対しての不満を強く持っている状態でした。私の中にある理想の母像を押しつけ、「あんなこともそんなこともしてくれないじゃない! そんなの母親としてどうなのよ!」と、30歳を前にしてもそんな状態でございました。お恥ずかしい (;´∀`)
その他の人間関係でも色々息詰まりもある中、色彩心理の学びを深めました。色の多様性を知り、心の機微を探求していく中で、母親という存在も多様であるという視点がある時ふと私の中に訪れました。すると、母への不満いら立ちが立ち消えたのです。その上、今まで抱いてこなかった尊敬の念が芽生えました。今でもその想いを胸に抱いています。この経験は、今回のライフサイクルのテーマである「言葉のもつ制限」から解放された、私の中の母たるものこうあるべきという呪縛から抜け出た瞬間だったのかもしれません。
相手に期待し求めることをしなくなり、そのままのその人の全体性を見るということができるようになった経緯はそういう流れで身に付き、意識と無意識を含めた全体性を掬い取るというセンサーを私にもたらしたと思っています。
「色彩学校」はカラーヒストリーを始め精神的な自分史を見つめるワークがありますが、私の場合、親子関係に対する自分の感じ方の幅を広げたことが、結果的に絵の読み解きやカウンセリングの幅、いわばクライエントへの理解力や想像力を高めることにも繋がった気がします。
言葉で認識している自分と心が望んでいる人生はイコールじゃない
末永 僕の場合、20代から30代は絵の解釈について研究していたこともあり、どうしても言葉の意味から導き出した考え方を優先していた。でも、言葉で掬える理解と心の深層の理解とは乖離していると気づき始めた。それが分かってきた時は冷や汗ものでした。若い頃、よく平気でカウンセリングと称してやっていたものだと(笑)。でも、アート表現を通して話しを聞かせてもらう方法だったので、言葉だけの決め付けに陥らず対話できたことは本当によかった!
でも、ちょっと油断すると刻々と変化し続ける心の多様な深層の流れを取りこぼしてしまう。今でも自分の「考え」やそれを表現する「言葉」を、それが一見もっともらしい時ほど疑ってしまいます。
疑うといえば、最近亡くなられた詩人の谷川俊太郎さんも「僕は言葉を疑っている」と語られていました。以前、「色彩学校」にゲスト講師としてお招きしたことがあり、その時、受講生の色彩表現を見ていただき感想をお訊きしたことがありました。すると、谷川さんは「いや、僕はそういうことを言葉では言えません」と仰っていたのが印象的でした。言葉を使う詩人だからこそ、言葉が固定した意味を持ってしまうことに対してどこまでも敏感だったのでしょう。多くの人が谷川さんの詩の世界に親しんできたことが分かるように思います。
他者に与えられていた言葉を脱ぎ捨てる時、深層での応答が始まる
佐久本 言葉が心そのものを形成することがわかると心理学の世界とリンクしてきそうですね。
末永 そうなんですよね。人間の感覚や自我も、深層心理すらも親を始め他人の言葉や存在をモデルに心を仕立てられていくとすら言える。憧れであれ反面教師であれ、そうやって形成されてきた自分。それに気づくと、セラピーの場でも目の前のクライエントは果たしてどのような他者、どのような外からの言葉を刷り込まれながら今ある自我を形成してきたのだろうかと思うんです。詩人アルチュール・ランボーの「私は一人の他人である」という言葉は胸に沁みます。
佐久本 心理学的に言うなら、それが「自我」や「超自我」ということになりますね。
▲病と歩む時間を生き、ありのままを受容する感覚が広がってきた2024年受講生Sさんの表現
「明日も日が昇り、風が吹き、それを受ける帆をはって、ゆったり海原を進んでいく。そういう人生を大事に生きていこうと思う。どうあらがっても風も香りもうねりも変えられないものだし、あるがままを受け入れて前を向いて行くしかないのだからと思うようになった」
末永 その表層のさらに深いところには与えられ刷り込まれた言葉だけでは掬い取れないような、本人も気づかないつぶやきが生まれているかもしれない。その地下水のような、声なきつぶやき、それは “魂の言葉” といっていいけれど耳を傾ける時に初めて、僕自身も相手の声なきつぶやきに対するセンサーが働き始める気がします。そんな生きた関係性の中でこそ魂の世界の応答も始まるんですよね。僕はこれまで何万枚という子どもの絵を読み解きながら、そこから自分なりにキャッチしたことをあたかも語り部のように伝えようとしてきた。そんな時は子どもの深層意識からのつぶやきが憑依した感覚になって我を忘れています(笑)。
佐久本 私が話した「見えるもの」と「見えないもの」というのも、その声なきつぶやきに耳を傾ける感じです。
末永 僕自身も自分の考え方、パーソナリティー、生き方に至るまでが言葉を中心に形成されていることが解った時は一瞬ショックでした(笑)。でもその自覚が生まれた時、自分にべったりとまとわりついていた言葉の網目のようなものがほころび始めた。そして外部から着せられていた、いわば借着というか、自分を仕立ててきた言葉や教育、文化を一旦疑ってみる。そして、それを脱ぎ捨てて自分なりの言葉を新しく使う自由感が生まれてきた気がする。もともと文章を書くことが好きだったのも、言葉というクレヨンで何かを描写している感覚があったから。時々「迷路のような文章ですね」って言われるけど。だから、「はい! 言葉を使ったシュールです! 抽象画です」なんてね!(笑)。説明のための言葉ではない “詩” のような言語感覚の世界といったらいいか。いろいろ試しながらアートセラピーの場に寄り添う “新しく真実味に満ちた言葉” 、音楽のように流れを持った対話の世界を創っていきたい。
佐久本 今回のコースでも、そんな自由な言語表現を皆さんと試みてシェアできたら楽しそう。
2025年2月スタート!
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