心惹かれる日本の画材~墨と顔彩~

江崎泰子(「色彩学校」主任講師)

画材屋さんに行くと、無数に並ぶ色を見ているだけでも、うっとりワクワクしませんか。
アートの世界にはたくさんの魅力的な画材、使ってみたい画材がたくさん。
その中でも今回は、私がもっとも惹かれ、奥深さを実感している墨と顔彩のお話です。

油絵に挑戦した夏目漱石

先日、用事があって神田神保町に出かけ、ついでにある画材屋さんに立ち寄りました。

そこは古い古書街の中でもひときわレトロな佇まいのビルにあり、入り口にはこれまた古色蒼然たる重々しい書体で「文房堂」と店の名が掲げられています。決して最新の画材が揃っているわけではないのですが、私はどこか懐かしい店内の感じが好きで、たまに立ち寄って店内を歩いては感慨にふけったりします。「夏目漱石もかつてこの店で絵の具を探したのだなぁ」と……。
文房堂は明治20年創業。東京芸術大学の前身である東京美術学校が設立され、これまで伝統的な日本画に代わって西洋画に関心が集まり始めた頃、いち早く油絵具の製造、販売を始めた店です。当時、西洋画を志す画学生や絵描きたちにとっては、時代の先端をいくハイカラな画材屋だったのでしょう。

▲明治から続く画材屋「文房堂」の外観。古き良き時代の面影を残す

小説を執筆する傍ら絵も描いていた漱石も、それまで使っていた墨や水彩絵の具に代わって、油彩にも挑戦したくなったのでしょう。友人の画家につき合ってもらって文房堂を訪れ、油絵の道具一式を買い揃えます。今からおよそ100年前の大正2年のことです。
そうして友人に手ほどきを受けながら熱心に油絵に取り組んでいたようですが、残念ながらいつの間にか止めてしまったみたいです。技術的な難しさもあったのでしょうが、それだけではなく漱石の気持ちにどこかフィットしなかったのではないでしょうか。

そう感じるのも、漱石は極度の神経症(現代の解釈ではうつ病が定説)を抱えていて、その症状が悪化しそうになると「自室に閉じこもって絵を描いていた」と鏡子夫人の回想に記されているからです。私が調べた範囲でも、漱石が盛んに絵を描いていた時期と精神の病に苦しんでいた時期は、ほとんど一致しています。
つまり漱石にとって絵を描くことは、自身の心を静めるセラピーでもあったのではないでしょうか。言語による創作活動で疲弊した脳をほぐし、時間を忘れて美の世界に浸れる絵。その感覚に応えてくれるのは、塗り重ねていく油彩ではなく水を含み流れるような筆運びができる、水彩や墨のような描画材だったのではかと思われます。

かつて絵描きは、その土地で作られる画材を使っていた

『ColorLink』でもこれまで紹介してきたように、それぞれの画材には使い方によって異なる感覚やセラピー効果があります。同じ水彩絵の具でも、水をたっぷり含ませて描くのか、チューブから直接塗りたくるように描くのかによって、引き出される感覚が違うように。
だからこそ、古今東西の画家たちはその時々の自分の感性やイメージに合った画材や表現方法を貪欲に追い求め続けるのでしょう。

▲『クロマトピアー色の世界ー』(グラフィック社)世界の顔料の歴史について、写真とともに紹介してある美しい本

もっとも絵の具が工業製品化され世界中に出回るまでは、日本には日本の、ヨーロッパにはヨーロッパの気候風土から生まれた染料や顔料があり、長い間それらが画材として使われていました。

もちろん一部の権力者たちはたとえば、「海の彼方から来た色」の色名をもつ「ウルトラマリン」のように、遥かな異国から高価な顔料を仕入れてお抱えの絵師に与えたりしていましたが、それは例外中の例外。多くはその土地で産出した土や岩や植物から色が生まれ描かれていたのです。

日本の絵師に関して言えば、伝統的に墨や顔彩を使って和紙や絹地に描くのが基本でした。美術史を振り返ると、『鳥獣戯画』のような平安時代の絵巻物から色鮮やかな伊藤若冲の作品、近年では奄美を描いた田中一村まで、日本画という範疇でとらえれば、どれも墨や顔彩を使って表現されています。

▲洗練されたデザインセンスが光る、村西恵津さん作のポストカード

墨と色のコラボを楽しむ「墨彩画クラス」

湿り気を帯び、透明感があり、グラデーションやおぼろげな輪郭線を描くことができるこれらの画材は、日本人のメンタリティにもきっと合っていたのかもしれません。
私も長いこと、これらの画材に憧れていました。いつか墨や顔彩を使って絵を描いてみたい、と。でも、本格的に日本画をやるには手間暇がかかりハードルが高いと諦めていたところ、「墨彩画」に出会いました。これは読んで字のごとく、墨と色による表現。和紙に墨と固形の顔彩を使って描く方法で、下地から作る日本画に比べごく簡単!「私でも出来そう……」と、2013年から「色彩学校」で墨彩画のクラスをスタートさせました。

教えてくださるのは、墨を使った和のテイストで知られるイラストレーターの村西恵津先生。
墨彩画クラスでは、墨や筆の使い方から始まって丁寧に指導してくださるのですが、描き始めると、もう皆、上手下手など関係なく自分の表現に没頭! それぞれ個性豊かな作品が仕上がります。
現在はオンライン(Zoom)で2ヵ月に1回行っていますが、参加者が多くなったため、春からウイークデイのクラスも開くことにしました。興味のある方は、一緒に墨と色とのコラボ「墨彩画」で、和の世界を楽しんでみませんか!

「墨彩画」クラスの詳細は下記バナーをクリックしてください ↓ ↓ ↓

★村西恵津さんは、現在、Eテレの「趣味どきっ 名画に学ぶにっぽん筆ペンイラスト」に講師として出演中(写真はそのテキスト)。3月24日(水)までの番組で、再放送もありますのでぜひご覧ください。

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江崎 泰子(えざき やすこ)
「色彩学校」主任講師

長年に渡り、日本の色や美術を研究。和の文化や歴史、画家の人生に心理的な視点からアプローチしている。『事典・色彩自由自在』では伝統色名の解説を担当する一方、不定期で「日本文化と伝統色」の講座を開催。日常的にも好きな着物、歌舞伎、浮世絵などを楽しんでいる。